歴史

歴史のこと

水井町 若杉山辰砂採掘遺跡

加茂谷には日本一古い辰砂を採掘した若杉山遺跡がありあます。
詳細は、こちらをご覧下さい。

加茂町 加茂宮ノ前遺跡

阿南市加茂谷地区にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の中流域右岸の加茂町にあり
標高約26mの自然堤防上に立地しています。
発掘調査は平成28年から行われ、これまでに鎌倉時代の建物や墓、
弥生時代中期末~古墳時代初頭にかけての水銀朱生産に用いた石杵(いしぎね)、
石臼(いしうす)などの道具類、弥生時代中期末の竪穴住居跡内から鉄器の加工を行った鍛冶炉(かじろ)などが発見されました。
詳細は、こちらをご覧下さい。

加茂宮ノ前遺跡 発掘作業

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十八女町 十八女用水と竹内十郎兵衛

江戸時代中期までは 、徳島藩内では石灰製造の技術がなかった。始めたのは彦根藩の竹内勘兵衛である。勘兵衛が当時大人気であった四国遍路巡拝の旅の途中、那賀郡水井村(現阿南市水井町)の山中に良質の石灰岩を発見し、帰国後、
彦根藩主井伊候に奏上し、開発を願い出たと記録にある。
水井村は四国霊場21番札所太龍寺の麓で四国遍路の順路である。彦根藩の伊
吹山には石灰岩の大きな山塊があり、当時から石灰製造が盛んに行われ、勘兵衛
はその技術者もしくは係役人であったらしく、開発に適した石灰山を探す目的
も兼ねて四国巡拝の途中、探索していたものと考えられる。
勘兵衛は井伊候から徳島藩蜂須賀候への橋渡しを得て、徳島藩より一手製造
の許可を受け、寛政8(1796年開発に着手する。窯場の築造、木馬道や川港の
回収、原料の採掘など多額の費用を要したが、事業が始まると勘兵衛は彦根に帰り、養子の竹内十郎兵衛に経営の全てを任せてしまう。
十郎兵衛は彦根の住人であるが、徳島藩内から嫁を貰い、水井村に住居を構え 、ひたすら経営に努力したこともあり、事業は次第に隆盛になり、藩内のみならず大坂(現在の大阪)方面へも積み出して巨額の利益を得ることになる。文化年間1804~1819には1年に10万俵(1俵=13kgをも産出し、利益が500両にもなっていたということだ。
十郎兵衛は大変立派な人で、その功績を称える碑文が、対岸の十八女村(現在の十八女町)皇子神社下にある庵に静也翁(じょうやおう)遺愛碑(静也は十郎兵衛の号、1819年死亡、1825年建立)として刻まれている。十八女村は那賀川に沿う河岸段丘上の集落で、灌漑用の水源に乏しく、始終渇水に悩まされていた。窮状を知った十郎兵衛は、上流の臼台から十八女村まで延長2649丈(約8.6km)の用水路を造った。十八女用水として現在も一部は使用されている。(現在は十八女町の上流で那賀川よりポンプで水を汲み上げ、十八女用水を利用して水田に用水を供給している。また大井村(現在の大井町)内の一部の用水路は大井町に譲渡されている)十八女用水は大変な難工事で、途中の谷には水路橋を架け、岩の崖を砕き、用水路の勾配は夜に提灯ちょうちんを並べ、対岸から高低を指図したとあり今も語り草である。
十郎兵衛は常に利益を三つに割り、3分の1は藩に納め、3分の1を寺社や道路の整備にあて、残りを自分用とした。なお余りがあれば「三度の食事を二度にして助けた」とも語り継がれている。実に高潔で立派な人だった。
十郎兵衛は文政2(1819)年に56歳の時、徳島二軒屋で病に倒れ、妻の実家正木家で亡くなった。墓は小松島市の桂林寺にある。
十郎兵衛の死後、200年以上過ぎたが、今も4月3日は「十郎兵衛祀り」としてお祀りをし、十八女町民は十郎兵衛の遺徳を偲んでいる。

出展 阿南市文化協会「阿南市の先覚者たち」