現在、20番鶴林寺から21番太龍寺へ向かう遍路道は
大井町の集落まで下って水井橋を渡り太龍寺に登る
「太龍寺道」を使っていますが
水井橋の無い古い時代に那賀川の対岸に渡れる場所が
4㎞ほど下流の加茂町の河原だったと思われ
そこから太龍寺に登る遍路道が存在します。
それが「かも道」なのです。
かも道は麓の一宿寺から太龍寺までの約4.4㎞の山道で
以前は地元の住民が太龍寺に登る道としても使われていましたが
車で登る道や対岸に渡る橋が整備され
歩き遍路は現在の太龍寺道が主流になった事で
この「かも道」は、ほとんど使われなくなり
そして荒れ放題になってしまっていたのです。

ただ、この「かも道」には多くの史跡や逸話が残っていて
古道としての景観も残っている素晴らしい道なので
なんとか復活させようという機運が
阿南市文化振興課や地元住民有志の間で高まり
荒れていた「かも道」が再び整備され
2013年頃から遍路道として復活しています。

ここが一宿寺境内にある、かも道への登り口。
この石柱は「丁石」と呼ばれ太龍寺までの残りの距離がわかるようになってます。
1丁=109m、41丁なので4,469mということで
登り口から太龍寺まで約4.5㎞となります。

これは「石室(いしむろ)」といわれる石組みの祠。
本来は、この祠の中に33観音像の一体が置かれているハズなのですが
現在その像は登り口の一宿寺にまとめて置かれています。

33観音なので本来、祠も33箇所あるハズなのですが
現在22箇所が確認されていて
そのほとんどが、こうして崩れた状態になってます。ザンネン!

これは「基壇(きだん)」と呼ばれているもので上部には
台座のみが残されていることから33観音が置かれていたのかも?
この基壇は4箇所確認されているようです。

かも道の最初の部分は竹林の中を抜けるので
通称「青の遍路道」と呼ばれています。

かも道は昔の石灰岩の採掘場へとも繋がっていて
こういう石灰岩で作られた石室(いしむろ)もあります。

これは33丁石なのですが建立された年代が側面に刻まれています。
なんと南北朝時代の貞治(じょうじ)4年=1365年。
現在、これより古い道標が見つかっていないという事で
かも道は「最古の遍路道」と呼ばれています。
この正面の文字は最初に掘られた側面の文字が読みにくくなって
江戸時代に掘り直されたものです。
ほとんどの丁石は古い文字の上に掘り直されてしまっているのですが
この33丁石は別の面に新しく掘られているので
南北朝時代の文字がなんとか確認できます。

この辺りは落ち葉でフカフカの道なのですが
11月頃の紅葉の時期には「赤の遍路道」と呼ばれています。

これは32丁石。
分岐点に置かれているのですが
よく見ると「右かも」と書かれています。
そう、この丁石が「かも道」の由来のとなった丁石なのです!

これは弘法大師坐像、文化2年(1805)年作。
側面に「これより つるへと とびなされし おあと」と書かれていて
ここから弘法大師が鶴林寺へ飛んだという伝説があるのですが

この伝説を証明するかのように台座に強い力で
杖をついた跡が残っているのです。

この辺りは石灰岩がゴロゴロしていて「白の遍路道」と呼ばれています。

そして、この日は少し霞んでいますが条件が良ければ
遥か和歌山を望む絶景ポイントもあるのです。

かも道には弘法大師にまつわる伝説も多く残っていて
これは「拳石」。
この道を弘法大師が通っている時この岩が大師の方に転がって来た際
左の拳で岩を殴り止めたという逸話があります。
拳の跡も残ってる?!

弘法大師のパワーが残っているかも?

この辺りは人の手が入っていない原生林の道。
古道!という感じがヒシヒシと伝わります。

これも伝説の残る岩。
「にじり石」と呼ばれていて太古の昔、この岩は登り口にある
一宿寺にあったそうで少しずつニジリながら
太龍寺に登っていると言われていて、この石が太龍寺に着くと
世界は泥海に沈むという伝説が残っているのです。
今も少しずつ動いているというのですが?!

こうした大きな自然の岩を使った石室もあります。
壊れているのが空しい…。

これは尾根ではなく人工の土橋。

かも道の丁石は兵庫県産の「みかげ石」で
現在、国産のみかげ石は採掘できないので
石材としても大変貴重なもののようです。
今から650年ほども前にワザワザ兵庫県から大量に運び
加工して、この山道を運んで建立したという事から
この道に対する信仰の深さが読み取れます。

これは遍路墓。
昔の遍路は命がけの旅で、お遍路さんは常に懐に遺書を忍ばせ
巡礼していたようです。
遺書には「行き倒れになった場合は、そこに墓を建てて下さい」
という内容が書かれていて発見した地元の方が供養したようです。

こちらが「かも道」の復活に尽力された
阿南市文化振興課の向井さん。

丁石の形についての解説。
かも道の丁石は四角柱ですが元は平安時代に弘法大師が
木製の五輪塔卒塔婆を建てて目印にしたのが始まりとのことで
木製だと腐ってしまうので鎌倉時代に石の五輪塔卒塔婆になり
南北朝時代になって形が簡略化されて今のような形になったようです。

普通に歩けば2時間ほどで太龍寺に到着。

加茂谷には、こんな貴重な文化遺産があるのです。
加茂谷を活性化する観光資源として利用していきたいですね!!